お笑いの本質は裏切り。・・・ではないと思う。

最近Twitterにおすすめのお笑い動画を挙げていることからわかる通り、僕はお笑いが好きである。

そしてきっとこのタイトルを見て記事を読もうと思ったあなたもお笑いが好きなんだと思う。

であれば、一度はこの言葉を聞いたことがあるかもしれない。

 

「お笑いとは裏切りである。」と。

 

ここで言う裏切りとは、如何に観客が驚く展開を作るか、予想のつかないオチに持っていくか、という意味であると僕は解釈している。

最近では面白い動きやギャグ、ワードセンスだけでなく、「ネタとしての完成度=展開の上手さ」が求められているように思える。

キングオブコントの審査員である松本人志や設楽統のコメントにはたびたび現れる。「つかみや設定がよかった。それだけに、もっとすごい展開を待ってしまった。」

 

すなわち、ネタの起承転結の、「転」でどれだけ観客を裏切れるかが、お笑いの本質であるということである。

 

このお笑いの定説について、部分的には賛成である。確かに裏切りは重要だと思う。

しかしながら、「裏切り」はネタをより高次元にするための技術であり、お笑いの本質・根本・基礎というよりはむしろ、発展・応用だと思う。

 

この記事で僕が主張したい、お笑いの本質は、裏切りではなく「共通認識」である。

 

〇「裏切り」を使ったお笑いの具体例を見てみる

分かりやすい例として挙げたいのは、サンシャイン池崎である。

池崎の持ちネタ、代表作と言えば、「長すぎる自己紹介ネタ」である。

舞台に登場するなり大きな声で次々と自己紹介をし、肝心の名前をなかなか言わないというネタだ。

 

途中で、「サンシャイーーーン!・・・池!」まで言い、ついに名前を言うかと思いきや、「・・・袋の近くで!普段、アルバイトをしてます!!!」と続く。

 

 

見事な裏切りである。

 

 

さて、この例を何の違和感もなく読めたあなたは、既に「共通認識」を持っていることにお気づきでしょうか。

 

 

 

それは、この芸人がサンシャイン池崎という名前であることを既に知っているということである。

 

そもそも名前を知らなければ、「サンシャイン池・・・」まで聞いた段階で(次に崎がくる)とは予想できない。予想していなければ池袋と言われたときに笑いはしない。さらに言えば、サンシャイン池袋という場所を知らなければ笑いよりも先にクエスチョンマークが浮かぶ。

 

すなわち、そもそも前提となる知識、認識が共通でないと裏切りようがないのである。

これこそが、共通認識が基礎で、裏切りが発展である、という僕の主張だ。

 

あるあるネタ・ものまねネタ

共通認識を使ったお笑いの最たる例がこの二つである。

 

テツアンドトモの「なんでだろう」いつもここからの「悲しいとき」、レギュラーのあるある探検隊つぶやきシロー・・・

これらのあるあるネタは何も裏切ってない。みんなが日常でよくあるちょっとしたこと、小学校の頃の思い出を蒸し返しているだけである。

それでも僕たちは「あーーそれあるある!」と言っているだけで笑っている。不思議と昔の懐かしい思い出を思い出すだけで笑ったり、日常で感じてたこの疑問、自分だけじゃなかったんだ!と親近感を覚えるだけで面白かったりする。共通認識が笑いを生むとはそういうことだと思う。

 

ものまねについても同様である。僕たちは明石家さんまがどんな声でどんな笑い方をするか、金八先生がどんなセリフを言うかを知っている。それにめちゃめちゃ似てるというだけで笑っているのである。

 

ものまねネタをさらに発展させるために編み出された例が、モノマネ芸人のホリの十八番「武田鉄矢が絶対に言わないこと」である。武田鉄矢の演じてきた役からはおよそ想像のつかないセリフが、武田鉄矢にそっくりな声で発せられるという矛盾が笑いを生んでいる。裏切りの笑いが発展系である、というのはこういうことである。

 

 

 

〇身近な事例

日常的な飲み会の席などでも笑いが起こることはあると思う。その中でも強力なネタは「内輪ネタ」である。内輪ネタはその場に居る人同士だけの共通言語であり、いじったりネタにしたりしやすく、笑いが起こりやすい。

しかしながら、その内輪ネタの意味が分からない人にとっては、まっっっっっっっっっっっっったく面白くない。

 

君たち、MCとかをやるときについつい内輪ネタに走っていないか?

 

 

 

 

という内輪ネタ。

 

 

〇さいごに

お笑い用語に「フリ」と「オチ」というものがある。ここまで説明してきた共通認識とは、フリをフリだと分かるかという話である。

 

フリがあるから、オチがある。フリが分かるからオチで笑える。

 

そして、お笑いは裏切りだとよく言われるのは、オチの付け方、話の展開として裏切りがよく用いられるし、効果的だからであると思う。

 

しかし裏切りはオチの付け方の一種であって、裏切らなくてもオチはつく。

 

 

 

 

 

・・・と、ここまで書いてこの記事のオチをどうつけるべきかわからなくなった。

 

 

 

というオチ。